名前を知らない道端の花にこそ、心が救われる日がある
こんにちは、桜井葉月です。
鎌倉で、フラワーセラピストとライターの仕事をしています。
朝の散歩は、私にとって仕事の一部のようなものです。
けれど正直に言えば、うまく書けない日ほど、家を出る足が重くなります。
そんなある夏の朝でした。
歩道の縁石のわずかな隙間から、小さな青い花が二枚の花びらを広げているのを見つけたのです。
名前も知りませんでした。
ただ、誰にも頼まれていないのに、こんなところで咲いているのだなと思ったとき、なぜか胸のあたりがすっと軽くなりました。
花屋で10年働き、その後7年フラワーセラピーの活動を続けてきて、私はたくさんの美しい花を扱ってきました。
それでも、心が本当に助けられた瞬間を思い返すと、そこにあるのは高価な花束ではなく、たいてい足元の小さな花なのです。
この記事では、夏から秋にかけて道端で会える花たちを、名前と物語ごとご紹介します。
あわせて、野の花と暮らすときのマナーや、摘まずに楽しむ方法もお伝えします。
読み終えたあと、いつもの帰り道が少しだけ違って見えたなら、これ以上うれしいことはありません。
目次
私たちは、名前を知らないまま花とすれ違っている
道端の花は、驚くほど「見えていない」ものです。
見えていないというより、視界には入っているのに、認識されないまま通り過ぎているという方が近いかもしれません。
通勤路に、何種類の花が咲いているでしょうか
試しに、いつも歩く道を思い浮かべてみてください。
駅までの十数分、足元にどんな花が咲いていたか、思い出せるでしょうか。
私も花屋時代は、まったく思い出せませんでした。
店の中の花には毎日ふれているのに、店の前のアスファルトの割れ目に咲く花のことは、ただの「草」としか思っていなかったのです。
けれど実際には、街なかの道端でも、季節ごとに十数種類の花が入れ替わりながら咲いています。
見えていなかったのは、花が小さいからではなく、私の側に「見る枠」がなかったからでした。
「雑草」という呼び名が、奪ってしまうもの
足元の花をまとめて呼ぶとき、私たちはつい「雑草」という言葉を使います。
この言葉には、便利な代わりに、少しだけ乱暴なところがあります。
有名な逸話があります。
昭和天皇が、庭の草を刈った侍従に対して、雑草という草はない、どの植物にも名前があってそれぞれ好きな場所で生きているのだ、という趣旨のことを語られたと伝えられています。
このやりとりは、長く侍従を務めた入江相政氏の著述を通じて知られるようになりました。
言葉というのは不思議なもので、ひとまとめの名前をつけた瞬間に、その中身を見なくてよくなってしまいます。
「雑草」とくくった花は、もう個々の姿を見られることがありません。
それは、人に対しても同じことが起きているのかもしれない、と私は思うのです。
名前を知った瞬間、風景の解像度が上がる
冒頭の青い花は、あとで調べてツユクサだと分かりました。
名前を知った翌朝の散歩で、私は同じ道に、ツユクサが十株以上あることに気づいて驚きました。
昨日まで一株も見えなかったものが、名前を知っただけで十株に増える。
もちろん花が増えたわけではなく、私の目が変わっただけです。
花の名前を覚えるというのは、知識を増やす行為である以上に、世界の解像度を上げる行為なのだと思います。
そして解像度が上がった風景は、驚くほど賑やかで、少しだけ優しくなります。
道端の花が、心をふっと軽くしてくれる理由
同じ花でも、花瓶の中の一輪と、道端の一輪では、心に届く感触が違います。
その違いがどこから来るのか、セラピーの現場で人と花に向き合いながら、私なりに考えてきたことをお話しします。
誰かに見せるために咲いていない
花屋に並ぶ花は、人に選ばれるために育てられ、そのために形を整えられています。
それは花の仕事として尊いことですし、私自身、その現場で働いてきました。
けれど道端の花は違います。
誰にも見られなくても、褒められなくても、今日そこで咲いています。
がんばりを見てもらえない日、成果が誰にも届かない日。
そんな日に道端の花を見ると、評価されることと、生きていることは別なのだと、言葉なしで思い出させてくれます。
手をかけられていないのに、生きている
胡蝶蘭や薔薇のように、丁寧な世話を必要とする花もあります。
一方で道端の花は、水やりも肥料もなしに、踏まれ、刈られ、それでも翌週にはまた咲いています。
強いから偉い、という話ではありません。
ただ、整えられた環境がなくても命は続くのだという事実は、疲れている人にとって静かな支えになります。
私自身、20代の終わりに心身を崩して、しばらく何もできない時期がありました。
あのとき部屋に飾った花は買った花でしたが、外に出られるようになって最初に心を掴まれたのは、団地の駐車場の隅に咲いていたカタバミの黄色でした。
「見つける」という行為そのものが、心を動かす
道端の花には、買う花にはない要素があります。
それは、自分で見つけるという能動性です。
受け取るのではなく、探して、気づいて、しゃがんで、目を近づける。
このとき私たちの意識は、頭の中の悩みではなく、目の前の小さな一点に移っています。
これは、マインドフルネスと呼ばれる状態にとてもよく似ています。
花を探して歩く時間は、それだけで思考の休憩時間になっているのです。
夏の朝、足元で咲いている花たち
ここからは、私が写真に撮りためてきた中から、夏から初秋にかけて出会いやすい花をご紹介します。
どれも特別な場所ではなく、住宅街や公園の縁で会える花ばかりです。
ツユクサ:朝しか咲かない、深い青
ツユクサは、二枚の青い花びらが耳のように開く、夏の朝の花です。
午後にはしぼんでしまう一日花で、出会えるのは午前中に歩いた人だけという、少し贅沢な花でもあります。
この青には、実は日本の工芸を支えてきた歴史があります。
ツユクサの仲間であるオオボウシバナの花から搾った青い汁を和紙に染み込ませたものが「青花紙」で、京友禅の下絵を描くために使われてきました。
水に触れると色が消えるという性質が、下絵の絵の具として重宝されたのです。
滋賀県草津市はこの青花紙の産地として知られ、染織技術を支える草津の名産「青花紙」というページで、その歴史や製作の様子が紹介されています。
消えることを前提に使われる青、というのは、なんとも心に残る話だと思いませんか。
ツユクサの花言葉は「なつかしい関係」。
朝だけ咲いて静かに消えていく姿と、この言葉はよく似合います。
ネジバナ:芝生に立つ、小さならせん
公園の芝生を歩いていて、細い茎にピンクの花が螺旋状に並んでいるのを見かけたら、それはネジバナです。
高さは15センチほど、花のひとつひとつは数ミリしかありません。
驚かれることが多いのですが、ネジバナはラン科の植物です。
胡蝶蘭やカトレアと同じ仲間が、芝生の上で咲いているのです。
国立科学博物館の身近な野生植物のデータベースでも、日当たりのよい芝地などに見られるラン科の多年草として紹介されています。
土の中で菌類と共生していて、その関係が崩れると育たないため、鉢に掘り上げて持ち帰っても長続きしないことがほとんどです。
ネジバナは、右巻きの株もあれば左巻きの株もあり、途中でねじれの向きが変わるものまであります。
まっすぐでなくてよいのだと、いつも私はこの花に笑わされます。
花言葉は「思慕」です。
カタバミ:踏まれても絶えない、黄色い小花
ハート型の葉を三枚つけ、五ミリほどの黄色い花を咲かせるのがカタバミです。
アスファルトの割れ目、駐車場の縁、階段の隅と、とにかくどこにでもいます。
この花は、日本の家紋の題材としても知られています。
地中深くまで根を伸ばし、抜いても抜いても絶えない生命力から、家が絶えないようにという願いを込めて、武家に好んで用いられたと伝えられます。
片喰紋は、桐や藤と並ぶ代表的な家紋のひとつに数えられてきました。
しつこい草として嫌われることもある花が、家の永続を願う紋章になる。
見る角度が変われば、同じ性質が長所にも短所にもなるという、わかりやすい実例だと思います。
花言葉は「輝く心」「喜び」と伝えられています。
名前で少し損をしている、道端の花たち
道端の花には、姿の可憐さに対して、名前がずいぶん気の毒なものがあります。
けれど名前の由来をたどると、そこには必ず人と植物の付き合いの歴史が残っています。
ヘクソカズラ:万葉集にも詠まれた、白い小さな鐘
夏、フェンスや低木に絡みつき、白い花の中心が紅色に染まった小さな花を咲かせるつる草があります。
姿はとても愛らしいのに、名前はヘクソカズラといいます。
茎や葉を傷つけると独特の匂いを放つことが、この名前の由来です。
万葉集にも「屎葛」として登場していて、少なくとも千三百年ほど前から、人はこの草をそう呼んでいたことになります。
一方で、この花には別の呼び名もあります。
花の姿をお灸に見立てたヤイトバナ、田植えをする早乙女の姿になぞらえたサオトメバナ。
同じ植物に、これほど印象の違う名前が併存しているというのが、私はとても好きです。
花言葉には「意外性のある」「誤解を解きたい」といったものが挙げられます。
名前で判断されてきた花に、この言葉が付いているのは、どこか出来すぎているようにも思えます。
シロツメクサ:緩衝材として海を渡ってきた花
四つ葉を探した記憶のある方も多い、あのクローバーです。
漢字では白詰草と書きます。
なぜ「詰」なのかというと、江戸時代にオランダからガラス器などが運ばれてくる際、割れないように乾燥させたこの草が箱に詰められていたからだと言われています。
守るための詰め物として海を渡ってきた草が、日本の野原に根づき、今では子どもが花冠を編む花になりました。
自分のために運ばれてきたわけではないのに、たどり着いた場所で咲いている。
その来歴を知ってから、私はこの花を見る目が変わりました。
花言葉は「約束」「幸運」などと伝えられています。
名前を知らないまま、しばらく眺めてみる時間
ここまで名前の話をしておいて逆のことを言うようですが、私はすぐに調べないことも大切にしています。
スマートフォンのカメラをかざせば、数秒で名前がわかる時代です。
便利ですし、私も使います。
けれど、名前がわかった瞬間に、花を見る時間は終わってしまいがちです。
名前という答えを手に入れると、人は安心して、その先を見なくなるからです。
だから私は、気になった花に出会ったら、まず一分だけそのまま眺めることにしています。
花びらは何枚か、どちらを向いているか、どんな場所を選んで生えているか。
そのあとで調べた名前は、不思議とよく記憶に残ります。
花言葉を知ると、道端の花が「贈りもの」に見えてくる
花言葉は、花屋で選ぶ花だけのものだと思われがちです。
けれど野の花にも、きちんと言葉が与えられてきました。
夏から秋に会える花と、その言葉
この記事でご紹介した花を中心に、道端で会える花の花言葉をまとめておきます。
花言葉は国や時代、文献によって異なる説があるため、絶対的な正解があるものではないという前提でご覧ください。
| 花の名前 | 見かける時期の目安 | 花言葉として伝えられるもの |
|---|---|---|
| ツユクサ | 6月〜10月の午前中 | なつかしい関係 |
| ネジバナ | 6月〜9月の芝地 | 思慕 |
| カタバミ | ほぼ通年 | 輝く心、喜び |
| ヘクソカズラ | 7月〜9月 | 意外性のある、誤解を解きたい |
| シロツメクサ | 4月〜10月 | 約束、幸運 |
| ヒメジョオン | 6月〜10月 | 素朴で清楚 |
贈る花の花言葉と、並べてみる
比べてみると、面白いことに気づきます。
贈答の花として選ばれる花には、はっきりと前向きで、相手の未来を祝う言葉が付いていることが多いのです。
たとえば胡蝶蘭の花言葉は「幸福が飛んでくる」「純粋な愛」で、白やピンク、黄色といった色ごとにも意味が分かれています。
色別の意味や、シーンごとの選び方については、胡蝶蘭の花言葉と由来|色別の意味に合わせた贈り物シーンも紹介!が丁寧にまとめてくださっているので、贈りものを考えている方はのぞいてみてください。
一方、道端の花の花言葉は、もっと内向きで、静かです。
なつかしい関係、思慕、誤解を解きたい。
祝うというより、そっと寄り添う言葉が並びます。
華やかな場面には胡蝶蘭のような花が似合い、ひとりで心を整えたい日には道端の花が似合う。
どちらが上ということではなく、花にも役割の違いがあるのだと私は思っています。
覚えるのではなく、重ねるもの
花言葉は、暗記するものではありません。
自分の記憶や状況を重ねたときに、はじめて意味を持ちます。
私にとってのカタバミの「輝く心」は、辞典に載っている意味ではなく、動けなかった時期に見上げた駐車場の黄色そのものです。
あなたにも、そういう一輪がきっとあるはずです。
あなたが最近、思わず足を止めた花はどれでしたか。
その花に、あなた自身の言葉をつけてみてもいいのだと思います。
摘んでいい花、そっとしておく花
道端の花を暮らしに取り入れるとき、知っておいていただきたいことがあります。
気持ちよく花と付き合うための、最低限の約束事です。
場所によっては、法律や権利が関わります
まず、他人の敷地や庭先に生えている花は、たとえ雑草に見えても勝手に摘むことはできません。
公園や河川敷、道路の植栽も、それぞれ管理者がいます。
そして自然の豊かな場所ほど、規制はしっかりしています。
国立公園や国定公園の特別地域では、環境大臣が指定した植物の採取や損傷が自然公園法によって規制されており、特別保護地区ではさらに厳しく制限されています。
詳しくは環境省の国立・国定公園における植物の保護対策について(指定植物)に説明があります。
旅先で見つけた美しい花ほど、持ち帰りたくなるものです。
けれどその花は、その場所にあるからこそ美しいのだ、と自分に言い聞かせるようにしています。
摘まずに持ち帰る、三つの方法
摘めない花を、それでも暮らしに連れて帰る方法はあります。
私が続けているのは次のようなことです。
- 写真を撮り、月ごとのフォルダに入れて「今年の道端の花」として残す
- 見つけた場所と日付をメモに書き添え、翌年の同じ時期に会いに行く
- 花の色を一色だけ選んで、その日の服やハンカチに取り入れてみる
三つ目は少し変わって聞こえるかもしれませんが、意外と効きます。
ツユクサの青を思い出しながら青いハンカチを持つだけで、その日は何度か、朝の花のことを思い出せるからです。
摘んでよい場所で摘めたときの、飾り方
自宅の庭や、許可の得られた場所で摘めたときには、ぜひ飾ってみてください。
野の花は花屋の花より水が下がりやすいので、少しだけコツがあります。
摘んだらすぐに水に浸け、茎の先を水の中で斜めに切り直します。
飾る器は、コップやお猪口のような小さなもので十分です。
むしろ大きな花瓶に入れると、野の花の繊細さは消えてしまいます。
ツユクサのように朝しか咲かない花は、その日のうちにしぼみます。
それでも、朝の食卓に青が一点あるという時間は、驚くほど一日の始まりを変えてくれます。
まとめ
道端の花について、名前と物語、そして付き合い方をお話ししてきました。
大切なところを振り返ります。
- 「雑草」とひとくくりにされている花にも、一つひとつ名前と歴史がある
- 名前を知ると、同じ道の風景が別のものに見えてくる
- 道端の花は、評価されなくても生きていることを静かに教えてくれる
- 他人の敷地や国立公園など、摘んではいけない場所があることは知っておきたい
- 摘めないときは、写真と記録で持ち帰るという楽しみ方がある
花屋の花には、贈るための華やかさがあります。
道端の花には、自分のために立ち止まるきっかけがあります。
どちらも必要で、どちらも私たちの暮らしを支えてくれます。
明日、家を出たら、ほんの十歩ぶんだけ足元を見ながら歩いてみてください。
きっと、名前を知らない花が咲いています。
その花に気づけた朝のあなたは、昨日のあなたより少しだけ、世界をよく見ています。
それはとても静かで、確かな回復のはじまりです。
あなたは今日、どんな花と目が合うでしょうか。